この国には、国民が何をすべきかを示す強制的な規制はありませんが、それでも誰もがルールを知っています。
マスクを着用し、社会的距離を保ち、手指を消毒し、体温をチェックしてもらいます。
触ったり、叫んだりしてはいけません。
サッカーの試合を応援したり、遊園地の乗り物で悲鳴を上げたりしないでください。
それは伝染病に襲われた未来的ディストピアを描いたSF映画のワンシーンのように聞こえるかもしれませんが、今日、世界が直面している最も差し迫った問題の1つ、つまり新型コロナウイルスと共存する方法に対する日本の解決策にもなっています。
感染症が世界中で増加しているにもかかわらず、この国では感染症は減少しているため、日本はコロナウイルスの不可解な暗号を最終的に解読した可能性があるのではないかと考えられています。
日本ではスマートサイエンスと同僚からの圧力が相まって、法的ペナルティや正式な都市封鎖もなしに、ウイルスを広範囲に抑制しています。
日本は中国式の厳格な取り締まりではなく、さりとてスウェーデン式の寛容さでもなく、そのとらえどころのない中間点を模索しており、それ自体がホワイトハウスのコロナウイルスアドバイザーであるアンソニー・ファウチ博士らが提唱する「パンデミックの新時代」と呼ぶものの1つのモデルになり得るかもしれないと注目されています。
「当初から、社会的および経済的な機会を維持しながら、感染をできるだけ抑えるよう努めてきました」とパンデミックに関する政府の指導的アドバイザーの1人である東北大学大学院医学系研究科微生物学分野教授である押谷仁氏は述べています。
「我が国の法制度では、中国がしたことを模倣することは出来ません。韓国やシンガポールは多くのテストを行っていますが、私たちのPCRテスト能力は当初制限されていました」と彼は言った。
「したがって、私たちは別のアプローチを見つけることを試みてきました」
世界が真実に覚醒するより数か月も前に、日本は閉鎖的空間と密集した群衆の危険性について目覚め、大胆な封鎖なしでパンデミックを乗り切る方法を模索し始めました。
5月になると、100を超える業界が、コロナウイルスの感染を最小限に抑えながら、それでもビジネスを行うためのガイドラインを自主作成しました。
レストランは窓を開けて多くの顧客を遠ざけて混雑を防ぎ、店舗はプラスチック製のスクリーンの後ろにアシスタントを配置し、バーは早く閉まり、人影が少なく、不気味で静かなスタジアムでスポーツが再開されました。
東京の通勤電車は、4月と5月の緊急事態の間には大部分が空になりましたが、現在は再びかなり混雑しています。
それでも窓は開いており、人々はマスクを装着しています。
目立つことへの恐怖がコロナウイルスに対する恐怖とほとんど同じくらい強い日本では、ほとんどの人がガイドラインを尊重します。
8月に発表された1つの研究は、人々がマスクを着用することを動機づけた主な理由は、ウイルスの蔓延を防ぐというよりはむしろ「周囲の圧力」であることがわかりました。
押谷教授は日本式のアプローチを、この国の文化的属性に由来するものであると考えているようです。
天然痘からコレラ、インフルエンザ、はしかまで、何世紀にもわたって多くの致命的な流行に見舞われてきた日本では、ウイルスを排除しようとするのではなく、ウイルスと「共存」する可能性を模索する方が理にかなっていたというわけです。
「日本人は古来から、人間の支配の及ばない非常に強大な力が存在することを認めており、畏敬の念をもって眺めてきました」と彼は述べています。
「人々は、これは排除できないものであると認識しています。 実際、感染症の大部分は排除することはできません」
このような文化的要因も、マスク着用の日本での受け入れ、公衆衛生概念への留意、規則への適合といった要件において重要な役割を果たしてきました。
しかし、文化と同様に重要なのはスマートサイエンスであり、早期の目覚めへの呼びかけです。
横浜港沖に停泊した巨大な「ペトリ皿」であるクルーズ船ダイヤモンドプリンセス号は、日本の科学者に、病気の伝染を分析するための重要な出発点とコロナウイルスのユニークな特性の手掛かりを与えました。
警報のベルが鳴り始めたのは、7人または8人の検疫官、看護師、職員が船でウイルスに感染したときでした。
「検疫官らは専門家であり、自分自身を守る方法を十分に知っていたはずです」と押谷教授は述べています。
「だからこそ、異常な伝染様式があるのではないかと疑ったのです」
押谷教授のチームはコロナウイルスが、咳、くしゃみ、接触だけでなく、空気中に浮遊して循環する微小液滴を介して広がっているようであると結論ずけました。
科学者はこれを「エアロゾル伝播」と呼んでいます。
2月中旬までに、この病気は日本中に広まり、疫学的データは押谷教授のチームを2つの驚くべき結論へと導きました。
1つ目は、症状がほとんどないか、あるいは全くない人であっても病気を感染させる可能性があるということです。
2つ目は、「スーパー・スプレッダー・イベント」として現在知られている現象に関連していました。
病気の人が他の2〜3人に感染させる可能性があるインフルエンザとは異なり、コロナウイルスに感染したほとんどの人(ほぼ80%)は他の誰にもウイルスを感染させませんでした。
代わりに、少数の人々が同時に多くの人々に感染させており、彼らは多くの場合、密集していて換気の悪い場所で密接に接触し、会話をしていました。
現在、これらの結論は世界中の多くの科学者に受け入れられていますが、日本の調査結果が幅広い国際的支持を得るまでには数ヶ月もかかりました。
一方、国内では、彼らはコロナウイルスへの取り組みに対する国のアプローチの基礎を形成しました。
マスクの使用は空中に広がるウイルスを封じ込める上で重要でしたが、科学者は感染クラスターの発見と排除に集中しました。
「Covid-19の感染は、クラスターを形成することなしに拡大することはありません」と押谷教授は言います。
その単純な結論は、厳しいロックダウンに対する日本独自の代替案を形成しました。
「サンミツ」または3Cと呼ばれる最も危険な状況を単に回避しさえすれば、ウイルスの蔓延を制御できるという新しい概念が生まれました。
公園を散歩したり、ジョギングをしたりすることも大丈夫でした。
人々は自分の家で囚人になる必要はありませんでした。
マスクの装着と社会的距離のある環境下ではありますが、子供たちは学校に戻ることも出来ました。
このアプローチには批評家がいます。
多くの科学者や医療専門家は、検査の欠如が病気の追跡に大きな障害となっていることを訴えています。
日本政府の対応はしばしばゆっくりと混乱しているように見え、世論調査ではそのパフォーマンスのスコアは非常に低くなっています。
多くの東アジアおよび東南アジアの国々の記録と比較して、日本の見た目はそれほど印象的ではなく、タイ、ベトナム、韓国はすべて、はるかに少ない死者を記録し、危機からの脱出がより迅速でした。
中国と台湾で通常の生活が再開する一方で、日本は依然として破産と失業の波に直面しています。
その見方からすると、日本の中道主義は、天才の一撃というよりは、ある種の妥協のように見えると批評家は主張します。
現在、感染症が衰退するにつれて、日本は経済を復活させるためにガイドラインを緩和し始めています。
コロナウイルス感染症の新たなる致命的な波を引き起こさず、それを行うことができるかどうかは、世界がパンデミックと戦う上でその戦略を占うリトマス試験紙になり得るかもしれません。
(参照:The Washington Post)
ワシントンポストのウェブサイトには読者投稿欄があります。
時々は何気なく見ているのですが、面白い投稿がありましたのでご紹介します。
某投稿者によれば、日本人には『恥』を『死』よりも重要視する文化があるのだと解説していました。
それは日本独特の精神文化である『武士道』に由来しており「恥」すなわち「社会的不名誉」を被ることは、日本人にとって「死にも勝る苦痛」なのだと論じていました。
彼は、米国には他人の迷惑を顧みない、恥知らずで「トランピィ」な人々が多すぎると嘆いていました。
一方で、マスクの着用を強要するが如き日本の社会的圧力は「市民権的自由」に対する攻撃であるとの指摘もありました。
さて、どちらの主張に分があるかは判断の分かれるところです。