ミラノ北部の小さな田舎町にある遺体安置所が2週間で1か月分の葬式を行いました。
打撃を受けたナポリの病院の遺体安置所の礼拝堂で、司祭は朝から務めを果たしています。
彼は死者の名前を毎日暗唱しています。
イタリアのコロナウイルスの死者を記録しているローマの国立衛生研究所では、死者の医療記録が次々と届きます。
ファイルを処理する担当者は、毎日数百人の犠牲者を処理しますが、翌朝になるとさらに多くの犠牲者が報告されてきます。
彼女はコンピューターの電源を入れました。
「死亡数は再び急増しました」と担当者のチンツィア・ロノス氏は呟きました。
パンデミックが始まった当初、イタリアの日々の莫大な死者数が国を恐怖に陥しいれ、世界の国々を震撼させました。
しかし、パンデミックが再びこれらの高さに近づくにつれ、イタリアは多くの人々が鈍感になり、疲労し、経済的生存に夢中になっていますが、危険は衰えることなく続いています。
イタリアでは、死者の数はもはや国家の悲劇として認識されていません。
しかし、それでも悲劇はあります。
残酷な死神は特定の介護施設、病院、あるいは家庭のリビングルームでより静かに戯れています。
今月、イタリアでは約10,000人がコロナウイルスで亡くなりました。
これは、人口比で捉えると米国の2倍以上の割合です。
世界保健機関によると、過去1週間の統計で、ヨーロッパの国々ではcovid-19で17秒ごとに1人が死亡したと報告されました。
この1週間の間に、イタリアは大陸で最も多い犠牲者を記録しました。
ある日は731人、次の日は753人。
国の保健省からの最新の報告によると、記録された死者は、春の第一波から大部分が逃れた貧しい南部の街が中心です。
シチリア島の田園地帯では、73歳のカロジェロ・ボンテンポ氏がウイルスに感染しました。
最初は主に疲労感を感じていたそうです。
しかし、その後、彼は「目が霞むようだ」と不調を訴えました。
そして彼の呼吸は急激に悪化しました。
親戚が救急車を呼び、救急隊が防護服を着て到着し、すぐにボンテンポ氏は最寄りのコロナウイルス病院に向かいました。
90分が経過しました。
彼は病室を与えられた直後に亡くなりました。
「私はまだ心理的に動揺しています」と病院から電話を受けた孫娘のヴァネッサ・カルシオーネさん(24歳)は言いました。
ボンテンポ氏の埋葬はオンラインで行われ、直接の弔問客が居ないまま祝福されました。
彼の棺を乗せた霊柩車は彼の家の前を通り過ぎました。
彼の妻は正面玄関のガラス越しに夫を見送りました。
「祖母は泣き叫んでいました」とカルシオーネさんは述べています。
直接の犠牲者の遺族ではない人にとっては、第2の波が春先と同じ程度に警戒されていない理由があります。
国が経済的苦境に陥るにつれて、国民の連帯感は衰えてきました。
そして、最初の波とは異なり、死者は地理的に広がっているため、危機のイメージはそれほど身近ではありません。
病院の外に軍用トラックがあるわけでもなく、11ページにも及ぶ地元新聞の死亡記事もありません。
被害の大きかった地域の病院でさえ、患者を利用可能な空ベッドのある他の地域病院に移送することで、治療の配分や誰が生きて誰が死ぬかを選択することを避けることができると言っています。
治療法の改善と病気への理解のおかげで、重症患者の死亡率も低くなっています。
しかし、この第二波の震源地の1つであるモンツァのサンジェラルド病院の感染症部門の責任者であるパオロ・ボンファンティ氏は、緊急事態の感覚は第一波となにも変わらないと述べました。
「救急車の途切れないサイレンの音、covid-19患者の酸素の不足、そして何よりも、私自身がほとんど説明できない戸惑いと恐怖に苛まれています」とボンファンティ医師は電子メールで書いています。
コロナウイルスは、その人口統計の故にイタリアで特に致命的です。
この国は、高齢者の割合が世界で2番目に高い国です。
国立衛生研究所によると、平均的なコロナウイルスの犠牲者は80歳です。
ほぼすべての人に何らかの既往症があり、多くの場合、複数の問題を抱えています。
この国の死者のわずか1.1パーセントが50歳未満でした。
犠牲者のファイルが分単位で到着するのを見る担当官のチンツィア・ロノス氏は、医療データの操作に慣れていますが、名前、生年月日、死亡日を見ると、時々頭の中がフリーズし、静かな祈りを呟くことさえあると言いました。
イタリアの保健機関には死亡データを分類する約20人の担当官がいますが、第2の波に追いつくことはできません。
チェーザレ・アゴスティーニ(83歳)の死に至った一連の出来事は、14歳の孫の誕生日パーティから始まりました。
家族はリスクがあることを知っていました。
しかし、春の封鎖以来、最初は屋外で、次に屋内で何度も愛する孫に会い、それは常に順調でした。
チェザーレの妻、アンジェラは特に社交的で、孫に会えないのは我慢できないと言いました。
そして孫の14歳の誕生日に、彼女は通常クリスマスに使われる大きなテーブルを使用することを申し出ました。
その大きなテーブルなら誰もが離れて座ることができました。
思えば中世のヨーロッパ人は、ペストがどのように広がるかを理解できていなかったのでしょう。
彼らの反応は今の私たちとそれほど変わらなかったのかもしれません。
彼らが席に着くと、家族は誕生日パーティーのリズムにリラックスしました。
抱擁もキスもありました。
そして、誕生日パーティーに出席した8人のうち6人が感染しました。
最初は、チェザーレとアンジェラのどちらが悪化したのかを判断するのは困難でした。
なぜなら彼らは両方とも熱があったからです。
二人とも病院に行くことを恐れていました。
数日後、彼らは一緒に救急車に乗り込み、アンジェラは53年間連れ添ったチェザーレと同じ病室に運ばれました。
しかし、同じ部屋を共有している病室で、アンジェラは回復し始めましたが、彼女の夫はそうではありませんでした。
彼は別の病棟に移され、人工呼吸器を装着されました。
それでさえ、彼の衰弱した肺にはほとんど効きませんでした。
病院のスタッフからの電話は悲劇的でした。
ある医師は「助かる見込みはない」と言いました。
コロナウイルスのパンデミックの最中に非常に多くの人々が病院で孤独に亡くなります。
チェザーレの娘たちは患者と面会してはならないという規則を知っていました。
しかし、それでも彼女らは病院に行きました。
娘たちは規則に目をつぶってくれる看護師を見つけ、保護具(ゴーグル、ボディスーツ、2組の手袋)を装着しました。
そして2人の患者が入院している病室に行きました。
一人は40代の見知らぬ人でしたが、もう一人は確かに彼女らの父親でした。
これは、パンデミックの最中に肉親と別れを告げる悲しみの物語です。
娘のエレナは彼女の父親を見ました。
彼はもう動いていませんでした。
彼は片目を半分閉じており、片方の足は「通常の4倍」腫れているように見えました。
人口呼吸器が虚しく回転し、空気を出し入れし、ペースメーカーが心臓の鼓動を助けていました。
エレナにとって、彼女の父親は機械のせいで生きているだけのように思えました。
「私は、私たちの父がもうそこにいないことを理解しました」とエレナは言いました。
「その体は私の知る父ではありませんでした」
より上級の病院のマネージャーは患者の傍に立つ彼女らを見てあわて、ルール違反に腹を立てました。
しかしエレナはそれが価値があると今でも信じています。
愛する父が死ぬ前の日に、彼女の父に会えたということを。
The Washington Post
春先、記憶の限りではCNNの放送だったと思いますが、ローマである男性の死を特集していました。
彼は自宅で倒れ、危篤状態になり、彼の妻は救急車を呼びましたが到着しなかったと言います。
彼女はベランダから身を乗り出し、一晩中大声で助けを呼びましたが、誰も駆けつけてはくれませんでした。
彼女の叫びが収まった頃、彼女の夫は亡くなりました。
それでもまだ助けは訪れず、結局彼女は、夫の亡骸と3日間も過ごしたそうです。
近所に住む住人はもちろん、その悲痛な叫びを聞いていましたが、それでもどうすることも出来ませんでした。
これは誰の身にも起こりうる悲劇の物語です。
管理者 黒岩留衣