Home ワシントンポスト ミャンマーにおける奇妙な取材旅行

ミャンマーにおける奇妙な取材旅行

by 黒岩留衣
134 views

「自分の目で見にきませんか?」最近ミャンマーの新しい軍事政権に雇われた外国人ロビイストに尋ねた時、彼はそう答えました。

 

アリ・ベン・メナシェと私は、東南アジア諸国のミャンマーへの関与について書いていた別の記事について話していました。
2月に選挙で選ばれた政府を追放した軍事政権で働いていた彼は、クーデター反対派の規模を軽視し、私に状況を直接見てほしいと言ったのです。

 

もちろん私は懐疑的でしたが、その提案には興味をそそられました。
そしてそれは外国の記者がミャンマーに入ることができる唯一の方法でした。

 

カナダとイスラエルの広報活動家であるベン・メナシェは、かつてジンバブエの政治的有力者であったロバート・ムガベやスーダンの新しい軍事指導者など、誰も触れたくない政権を代表することで知られています。
数日後、私がパスポートのコピーを送った後、彼は私の要求がミャンマーの軍事政権の「最高レベル」の人物に提出されたと言いました。

 

3月25日までに、私はシングルエントリーのビジネスビザ(1回限り有効な入国許可証)を取得し、クーデター以来の軍事政権に対し接触を試みる、最初の4人の西洋人ジャーナリストの1人になりました。
私がCNNの取材クルーと一緒に行った一週間の旅は、その世界的なイメージを作り直すための軍事政権による不器用な試みになりました。

 

ロヒンギャのイスラム教徒に対する焦土作戦を白塗りする努力に似て、世界中が600人以上が殺された反対派の取り締まりを非難しているため、ミャンマー軍はプロパガンダに積極的でした。

 

私は3月30日に韓国から救援物資を運ぶ飛行機でヤンゴンに着陸しました。
私は飛行機に、ほんの一握りの援助労働者を期待していましたが、代わりに、それはほぼ満員であり、ミャンマーからの人々によって占められていました。
家族と再会するために本国に送還する人もいれば、抗議運動と連帯するために旅立つ人もいました。

 

私がミャンマーに入る前でさえ、これが通常の任務ではないことは明らかでした。
ベン・メナシェ、または彼の助手は、取材日程または安全手順について私を叱責するために、旅行の前に定期的に私に電話をしました。

 

「私の話を聞いていないのですか?」ベン・メナシェは、ある特、私との電話中に怒ったように唸りました。
「あなたは子供ですか?両親の許可が必要ですか?」

 

ミャンマーの治安部隊がクーデター反対運動を鎮圧するにつれて、ますます多くの子供たちが死亡しています。
そして、ヤンゴンに上陸した瞬間から、私たちは自由に動き回ることが完全に禁止されました。
私は、VPNに接続された使い捨て電話のみの使用を許されました。

 

すべての通信が綿密に監視されていることを懸念して、私は細心の注意を払ってデジタル通信しました。
ですが、結局のところ、それはなんら問題ではありませんでした。
なぜならば、ヤンゴンでの最初の日以降、おそらくオンラインで共有できるもの全てを制限するために、市内のWiFiがオフになったからです。

 

私たちは兵士によってヤンゴン周辺を護衛されました。
私たちの取材旅行の間、これらの護衛兵は私たちのすべての動きを監視し、記録しました。
私たちの連絡将校は、これは「私たち自身の安全を守る」ためであり、「違反者」(軍が抗議者を指すために使用する用語)から私たちを保護するためであると私に言いました。

 

軍が国際メディアの存在を紹介することによって、自分たちの透明性を主張したかったことは明白でした。
最初の2日間は、抗議者の暴力事件を紹介するために慎重に選ばれた場所に連れて行かれました。
ヤンゴン北部にある3つのタウンシップ管理事務所と、抗議者によって焼失したとされるいくつかの工場を訪問しました。
これには、ヤンゴンのマヤンゴン郡区にあるガダマー・スーパーストアが含まれており、私たちが到着したときもまだ煙が燻っていました。

 

それぞれの取材地で、私たちは、抗議者によって攻撃されたり、名誉を毀損されたりしたと主張する、一見綿密にリハーサルされたと思われる話をする人々に会いました。
ストーリーはしばしば信じがたいものであり、頻繁に時系列が変化し、そもそも証拠がほとんどありませんでした。
いくつかの例では、採用された言葉、特に「人権侵害」というフレーズの使用は、外国人記者としての私たちの感性に訴えるように作られているかのように思えました。

 

ヤンゴンでの最後の日、私たちはインセイン郡区の10マイルマーケットに連れて行かれ、ついに真実にもっとも近いと思われるシーンに遭遇しました。
私たちが到着して間もなく、騒音が鳴り始めたのです。

 

わずか数秒のうちに、前は静かだった通りは、クーデター以来ミャンマー全土で広く一般的になっている、反軍事的不服従の行為である鍋やフライパンを叩く人々の音で満たされました。
騒音が大きくなるにつれて周りを見回すと、視界にいるほぼ全員が、抗議運動の象徴となった3本指の敬礼を掲げているのがわかりました。

 

「すべてのミャンマー人は軍事クーデターを好ましく思っていません」
「私たち国民によっては選出された政府、つまりアウンサン・スーチー政府を望んでいます」と彼らは語りました。

 

私たちが去るときに若い女性が近づき、自分の国で今、何が起こっているのかを私に話そうとして泣き出しました。
彼女は私と話すことが危険であることを十分に知っていましたが、彼女は、この国の真実を世界の人々が共有することの方がより重要であると言いました。

 

「私たちを助けてください、私たちは本当にそれを必要としています」と若い女性は言いました。
「彼らは真実を隠蔽しています。軍は偽のニュースを世界に見せたいと思っています」

 

マーケットを去った直後、CNNの取材班と話をした2人が逮捕されたことがわかりました。
旅行が進むにつれて、逮捕された人の数は11人に達しました。
ほとんどが最終的には解放されたと聞かされました。

 

ベン・メナシェによれば、当の軍隊でさえ、取材旅行の残りの部分に影を落としたため、逮捕には動揺したと言いました。
「彼らはそもそも逮捕されるべきではなかった」とベン・メナシェは言いました。
「それをしたのは地元の愚かな警官でした。そして、高官がそれについて知った後、彼らはすぐに解放されました」と彼は説明しました。

 

ヤンゴンの後、私たちはミャンマーの首都であるネピドーに車で行きました。
ネピドーは、クーデター前でさえ、ディストピア的な雰囲気を漂わせていました。
12車線の高速道路を運転していると、霧が立ち込めました。
ミャンマーはまだ乾季でしたが、首都に嵐が降り、大雨が降っていました。

 

ネピドーで過ごした私たちの時間は、取材日程を通して私たちに繰り返された、抗議者に対する致命的な暴力に関する誤った自己正当化を訴えた軍のスポークスマンへのインタビューを中心にプランニングされていました。
私たちは軍の他のメンバー、特に最高レベルのメンバーと話すよう繰り返し要請しましたが、リクエストは拒否されたか、あるいは無視されました。

 

「抗議者たちは、暴力的に通りを封鎖し、警察官に石を投げつけました」と軍の報道官であるゾー・ミン・トゥン少将は述べました。
「この時、私たちはこれらの暴力的な抗議者に対して、必要な行動をとらなければなりませんでした」

 

取材旅行の終わりまでに、CNNの取材クルーと話をしたために拘留された人々のニュースは、私たちの物語を支配しました。
私にとって、最も心に訴えるのは、政権に反対する人々の声でした。
彼らは直接、バルコニーから、あるいは車の中から声をあげました。

 

「この国の本当の姿を報告してください」と一人の女性が私たちに叫んでいた姿が忘れられません。

 

 

ミャンマーからアレグラ・メンデルソンがレポートしました。

The Washington Post:2021年4月9日


原題:My unusual week with Myanmar’s violent, paranoid military junta
引用:https://www.washingtonpost.com/world/asia_pacific/myanmar-coup-military-protests/2021/04/09/acbb02f2-9791-11eb-8f0a-3384cf4fb399_story.html

ブログランキングに参加しています

にほんブログ村 ニュースブログ 海外ニュースへ

⭐️更新の励みになりますので、みなさま是非クリックで応援してください。

PR

外信記事を日本語でお届けします